2010年03月16日
私のモノサシ
昨日の続き・・・
座禅の最中は本当に色々な考えが浮かんできました。
座禅後の講和で聖徳太子の十七条の憲法の中の一節(第十条)が紹介されました。
われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理なんぞよく定むべき
<現代訳>
彼がよしとすれば、われの意にはかなわず、われがよしとしても、彼の意にはそわぬ。ただわれのみ聖ということなく、彼のみ愚ということは決してない。人はみな凡夫だからだ。正しい、間違っているなど一体誰が定めえようか。
個人個人、生き方や価値観が違うのにいいとか悪いとかは判断できません。会社経営でも普段の生活でも自分の価値観に照らし合わせてしか物事を判断できないのです。
周りの言動に一喜一憂するのではなく、自分の信念を持って、自分と違うは意見や行動はありのまま受け入れるだけでいいと思います。自分が正しいかどうかという点で迷いはありましたが、要するに正しいときもあれば間違っている時もあるということで、事実に対して自分がどう動くべきか考えるのが大事だと思いました。


座禅の最中は本当に色々な考えが浮かんできました。
座禅後の講和で聖徳太子の十七条の憲法の中の一節(第十条)が紹介されました。
われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理なんぞよく定むべき
<現代訳>
彼がよしとすれば、われの意にはかなわず、われがよしとしても、彼の意にはそわぬ。ただわれのみ聖ということなく、彼のみ愚ということは決してない。人はみな凡夫だからだ。正しい、間違っているなど一体誰が定めえようか。
個人個人、生き方や価値観が違うのにいいとか悪いとかは判断できません。会社経営でも普段の生活でも自分の価値観に照らし合わせてしか物事を判断できないのです。
周りの言動に一喜一憂するのではなく、自分の信念を持って、自分と違うは意見や行動はありのまま受け入れるだけでいいと思います。自分が正しいかどうかという点で迷いはありましたが、要するに正しいときもあれば間違っている時もあるということで、事実に対して自分がどう動くべきか考えるのが大事だと思いました。

